Keikoピアノ教室 講師
髙木圭子

名古屋音楽大学器楽学科ピアノ専攻卒業。

6年間、ヤマハ名古屋支部 音楽教室システム講師として稼働。
その間に、ポピュラーコース担当、又作曲活動もして、ヤマハIOCコンサートに出品。
「ピアノとクラリネットのためのバラード」etc.

結婚後、横浜に転居。
ヤマハ特約楽器店のピアノ講師として稼働するも、子育て中は一旦退職し、自宅のピアノ教室だけを細々と続けていた。
この期間中に、ジャズコードプログレッションを習う。

又、”みんなの舞台” と称するクラッシックの先生の集まりのコンサートを、毎年6月と11月に、主催者として開催している。
ここではピアノソロ以外に、朗読のバックとして、ピアノでオリジナル曲を披露している。

私の学生時代~今日に至るまでのお話

波乱万丈?!学生時代と作曲との出合い

そもそも私が、作曲に興味を持ち始めたのは、大学に入り間もない頃でした。
私は入学した大学の、ピアノの先生に、それまでついていたわけではなかったので、当然入学してから、新たに大学側より指定された先生に決まりました。

ところがその先生は、初回にみえたきり、こなくなってしまいました。何と、自分の大学時代の恩師との間に、スキャンダルを起こし、精神的にダメージを受け、入院してしまったということでした。
そんなわけで、その先生についた我々達(私含め、五人いた)は、みんなバラバラに、他の先生方に、振り分けられました。

やっと落ち着いて、前期試験も終了後、またまた大学側より、今回引き受けられた先生方は、みんな本当は、パンク状態だったということで、近々新しいピアノの先生がはいられるから、みんなその人の元で新たにスタートをきってほしいとなりました。

一旦バラバラになった私達は、またその新しい先生のもとへと、集結した次第でした。

まあやっと落ち着いてその先生に着くことになったわけですが、こういうまず普通だったらあり得ない状態の中、ピアノに落ち着いてとりくめなかったのも、今から思えば影響したのかも、しれません。

私は、和声学(※1)とか、対位法(※2)の授業に、とても楽しさを、感じていました。
さかのぼれば、高校時代でも、和声学(1赤、2黄色、3緑)は、赤の基礎編しかやりませんでしたが、その頃も、数ある規則の中で、4声体を作って行く作業は、満更でもないほうでした。

※1 和声学:作曲の基礎となるクラシックのコード理論のこと。赤、黄、緑のカバーの3巻からなる。

※2 対位法:コード理論とは別の基礎理論。複数の旋律を美しく同時進行させる方法を学ぶ。

大学にはいってからは、2の黄色本で、さらにいろんな和音が登場し、それを、あーでもない、こーでもないと、より綺麗なハーモニーを求め、作っていく作業は、楽しい時間でした。

私の周りの、同じピアノ科内では、あまり私みたいな人は、いませんでした。そこで、結構和声学、対位法の先生のお部屋へたずねたものでした。先生方も、結構熱心に、みていただけ、思えばその頃、入学してから、コロコロとたらい回しされたピアノ先生騒動で、イラついていた気持ちを、その音作り作業が、鎮めてくれていたのかも、とも、思います。

いや、実際に楽しかったので、定着してピアノの先生に着いてからも、合間を縫って、伺ってました。やがてその先生方も変わられ、また忙しくもなり、しかし、せっかくだから、やり続けなさいということで、、お弟子の先生(当時大学卒業後、委託研究員として、楽器室に常時みえた)を紹介してもらいました。
そこで、私は、もうピアノ科ではやらない和声学3も購入し、ならいはじめました。

楽器室に出入りするようになると、普段はあまり授業が一緒にならない作曲学科、金管、木管楽器の子達とも、それとなく顔見知りになり、色んな楽器のおはなし、オーケストラのはなしなど聞いたのも、私にとっては、未知の世界を目の当たりにした気分で、ステキなものでした。

先生にも勧められ、管弦楽法という、分厚い本を購入したのも、そのころでした。でも、いろんな楽器の曲を書いてみようと、この頃強く思うようになり、そうなると、結局、本を読んだりするより、そのまさに楽器の専攻の子達に聞いてみたりする、実践の積み重ねが1番ということを、痛感しました。

ピアノと金管、ピアノと木管などの小曲のまねして、かいてみたり、いろんな楽器の子達に、きいてみたりと、僅かな空き時間に、ちょこちょこと、楽器室には、出入りした覚えがあります。

それにしても、ピアノの練習というのは、実に孤独で、地道な時間の多くかかる作業です。しかし、そんなピアノにあこがれ、大学へ専攻として入り、やっと一年生の秋より、新しい先生のもとで、落ち着いて習えるようになり、ほっとしたわけでありました。

が、….その先生は、まあ今で言ったら、どうでしょう?!パワハラ、?!的な。
小さい頃より、英才教育を受け、いわゆるエリートコースを歩んだ方で、学生コンクール入賞後、ドイツへ留学し、何年か研鑚ん積んで、かえってみえたという輝かしい経歴持ちの方でした。

確かに、元気で熱い熱心なレッスンは、していただききましたが、できないことをかなり容赦なくきつい言葉で言われ、なんどかめげること、多々ありました。先輩の中には、しばらくショックで、立ち直れなかった方もいました。

しかし私は、ピアノの先生って、そう、特にこういう専門の先生は、そういうもんだと言い聞かせていましたし、たらい回しされた日々のことを思えば、まだましかあという感じにとらえていました。
もしかしたら、やはり、ここでも、楽器室の楽しい時間があったからこそ、乗り越えられた?!のかも、しれません。

しかしその先生も間もなく産休にはいられ、(これは、仕方ないことですが)また我々は、一旦バラバラに他の先生にふりわけられ、やっと戻ってみえた頃、私達は、3年生になってました。

また厳しいながらも、レッスンが一年続いたある四年生に上がる春休み、いきなり我々は、ピアノの先生に、呼びつけられ、他の大学への自分の移籍の事実を告げられました。

せめて、あと一年は….と訴えた私達の願いは、聞き入れられず、結局またみんな、バラバラとなることになりました。まあこんな目にあった我々、さすがにもう最後の年だし、みんなもう必ず希望の先生につかせてもらえることを、大学側にも呑んでもらい、私はたまたま高校の時ついていた先生と、仲のよかった、たまに、わたしのことも、気にかけてくれた先生のもとへ、就かせてもらいました。

後から仲良くなった当時の大学の学長に聞いた話では、ドイツからかえってきたばかりの頃、知り合いん通じ、頭下げ頼み込んできたのに、そのうちに、仲の良い大学時代の友達が、同じ県内の音大にいることがわかり、頼み込んでさっときめてしまったとか。

確かに就職って、コネとかいろいろあり、一概にとんでもないとはいいがたいものがありますが、わたしはあのころ、音大のピアノ科のエリートコースを歩んだ先生というのは、こういう人がおおいのかなあと、ショックでした。

というわけで、私達のこういう普通ではあり得なかった、異常な過程の中、大きな心の支えとなった作曲まがい?!の楽器室通いは、確かな事実です。

ヤマハ音楽教室講師時代

そういうことも、あったせいか、いよいよ就職という時期になって、私はピアノを教えるということだけでなく、何か創作につながることで、指導もしたいという考えに、至りました。

その頃、(今でもですが….)ヤマハ音楽教育システムの、JOCという、いわゆる子供達が音を通じ、自分の世界を表現、作曲、創作するにあたっての、指導は、私の考えにも、あっているのでは?と、思いました。

実際、ヤマハに入り、稼働をはじめると、まあ誰もがそうですが、現実はなかなかそんな創作への道というよりは、研修三昧、。
小さい子達のグループは、何人かのお母様にかこまれ、先輩講師のレッスン見学チェック、毎回のレポート提出などの連続でした。
そんな憧れた創作指導とは、ほど遠い毎日の中、今でも忘れられない思い出があります。

うちの父は、小学校の教師をしてましたが、近くの学校で、リュート(古楽器)の演奏会を、催したいが、伴奏者がいなく、私の事を聞いて知っていたらしく、頼みにみえました。勿論、喜んで引き受けさせてもらいました。久々に、素朴なバロックの響きにふれ、いい演奏会になりました。

が、その先生が、一度練習の帰り、車でうちまで送ってくださいました。その時車の中で鳴っていた音楽が、オスカーピーターソントリオのジャズトリオの演奏でした。先生は、「クラッシックの方がよかったかな?」と言われてましたが、私はオスカーの、超絶技巧の、また音楽的にも素晴らしいアドリブに、度肝抜かれ、その日すぐにCDをお借りし、ダビングし、それから毎日聴いておりました。

もともと、ポップス、歌謡曲、まあフュージョン的なものは、嫌いではなかったし、ヤマハにはいり、さらに必然的に弾いたりはしてましたが、このジャズの音の世界は、今まで触れてこなかった、新しい魅力的な世界でした。

でも、私にとってこの頃ジャズは、聞く楽しみとして、存在しておりました。最初の苦しい研修を過ぎた頃より、ちょうどヤマハの子供対象だけでなく、インターナショナルオリジナルコンサートなるものがあり、ここへ、講師として、クラリネットとピアノのバラード、ピアノとホルン、ピアノとトロンボーンのアンサンブル曲も、出品させていただいたのは、嬉しい事でした。

結婚後、リトミックを学ぶ

その後結婚と共に、横浜へ転居して、またふたたび、ヤマハの特約店で、しかし今度は、ピアノ個人講師として、稼働しはじめました。

やっと生活も、落ち着いた頃、お友達作りも兼ねて、何か習おうと、前々から、私がまだ名古屋にいた頃、同じ門下の先輩が、リトミック講座を受け、すごくよかったと言ってた事を思い出し、せっかくなら、仕事にも役立つものがいいと、さっそくさがしはじめました。そんな時、たまたま新聞のカルチャーセンター講座の欄に載ってたので、即申し込みました。

そのリトミックの先生は、音大の先生で、日本で初めてスイスのリトミックの創始者ダルクローズの学校へ、留学され何年か研鑚を積んで、この度帰国されたという先生(もっとも私はこのことは、後から聞いたのだが)でした。

主にそのクラスは、子供達にリトミックを指導する先生方が、自分の勉強のために、来ているという感じでした。が、私はもちろん、そういう人ではなかったし、そもそもリトミックなるものが、どんなものかも知らず、入りました。

しかし、素晴らしかった。音、リズム、つまり音楽というのは、実に人間の体の動き、呼吸、と、すごくむすびついているものということを、自分の体で感じとりました。また、そのリトミックの先生も、実に飛んだり、跳ねたり、静かにゆっくりあるいたりと、あらゆる動きに、あった素敵な音楽を、表現してくださいました。これぞまさに、創作だ!という、楽しい勉強のひとときでした。

そしてさらに私は、リトミックに体の動きだけでなく、即興という、学ぶべき分野があることを、そのクラスで仲良くなった子から聞きました。

何と彼女も、私と同じ頃結婚し、しかし彼女は、ちゃんと先生の経歴もわかっていたうえで、講座に申し込んで入った方でした。その先生の音大と同じところへ入って、しかし、先生は間も無く留学されということで、在学中には、教えを請う事はかなわず、やっとこの機会を得たということで、詳しいのは、当たり前でした。

しかしその彼女のおかげで、リトミックのカルチャー講座が何期か終わって、もうセンターではなくなるという時期に、そのリトミック即興クラスが、発足されました。何と彼女は、動きだと、懐妊したらなかなか大変だけど、即興だったら、大丈夫という、もう実に計画的というか、それこそ、私はそんなこと、考えてもいなかったわけですが、この計画にもちょうどピッタリということで、そのリトミックの即興クラスMICに、はいりました。

そんなわけで、また私は再び作曲という方向(5線ノート持って、創作の実践活動)へと、入ってゆけました。そのリトミック即興(MIC)は、月1のクラスだったこともあり、発足者の彼女同様、小さい子供のいる私としては、なんとかこなしていけました。

MICの即興は、確かにあくまでも、実際動いている人の動きに反応し、音を作る即興的なものではありますが、それは常日頃の訓練のもとに、成り立っていくといえます。

たとえば、与えられた条件(4度音程の音のみ使用)とかで、短い曲作り、そのうちに、お題が与えられたり、この絵を見ての音楽作りとか、。どんどん進んでいけば、今までにやってきたいろんな条件をくみあわせ、音を作り出す….それは、クラシックの形式および、機能和声の中においての、曲作りの展開とは違って、まさに、動き、ことば、情景などから、イメージされる音を、組み立てていく創作のやり方、これも、楽しいものでした。

今現在わたしが6月と11月に催している舞台で、朗読のバックにその話のイメージにより作ったオリジナルピアノ曲は、もうまさに、このMICの作り方そのものです。

ジャズを学ぶ

そんなMICがはじまって、結構何年かたち、メンバーも、年とたもに、変わっていった頃、ある1人のリトミックの先生が入会されました。その人いわく、自分は保育園の先生になるための、専門学校しか出ていないが、この先生のリトミッククラスで感動し、自分も子供達に、指導したいと、勉強しつつ、指導者となっていったという方だった。

やはり、自分がしっかりピアノにとりくまないと、表現したくても、出来ないということを、痛感され、新たに近くのピアノの先生のもとへ、通うようになったと。

ところがその先生、ジャズのピアニストで、実は音大の作曲学科にはいったものの、2年目に、ジャズのベストプレイヤーズ賞をいただいて、もう仕事をはじめてしまい、大学を中退してしまったという方でした。

その方が先生のリトミック講座のとき、ゲストとしてみえ、ピアノソロのジャズを、ご披露されました。私はかつて、ヤマハに入ったばかりの頃、小学校の先生に聞かされた、オスカーピーターソンを思い出しました。もちろんあれからもよく聴いてはいましたが、結婚後、転居して子供がうまれ、次第にジャズからは、遠ざかっていました。

よくジャズのライブハウスへ行く人に聞くと、「ピアニストが、いつも同じようなパターンで弾いてて、あんまり技術もなさそうだしという人、結構いるよ」と、言ってましたが、もうこの人は、技術的にも、すごくレベルが高く、正に鮮やかな弾きっぷりでした。こんなチャンスはない!と、さっそくその、リトミックの方に頼んでもらい、ジャズを今度は、習うことになりました。

そのジャズピアニストの方は、クラシックも、すごく好きで、ちゃんと先生について、そちらも、研鑚積んでいらっしゃるようでした。横浜ジャズプロムナードでも、活躍されており、よく勉強もされており、何よりも、腰が低いというか、暖かいこころの方でした。私は、数年間、彼のもとで、ブルースとか、曲を弾いたりとか、していました。

トリオなどの発表会も、生徒のために、やってくださり、それはそれで、よかったのですが、彼自身プレイヤーとして、やっていく中、「順序立てて、基礎から」という「カリキュラム組んでやる」というタイプでなかったため、私はもちろん、その先生も素晴らしく、習いつつ、密かにしっかり基礎からの、コードプログレッションを習うに至りました。

ちょうどその頃、ソルフェージュの連続講座ん受けてましたが、その先生のお兄さんが何とジャズオルガニストで、そのジャズコードブログレッションを二年間で、基礎をみっちり指導されるということで、新しいクラスを近々作るということでした。ちょっと通うには、往復2時間という場所と聞き、決意が揺らぎそうになったところ、同じこの横浜より「私も習うから、行こうよ!」と、強く誘われ結局申し込みました。

でも今思えば、行ってよかった。もちろん、ジャズでもなんでもそうですが、理論習ったからといって、アドリブが、バリバリ弾けるようになるわけではないけれど、やっぱり大切です。

ジャズ独特のスケールによって、それをしっかりこの小節にはどれを使い、またどんな動きかたがあるかとかいうのは、ある程度の規則があり、しかしその中で、いかに自由に動けるか、しかも、音楽的にというのは、習ってそれを使いこなすことを、たくさんやらなくては、いけません。

トリオとかでアドリブを順番に回すとき、相手の音、リズムを受け、自分はこうだよと、あわせたり、こんなのはどう?みたいな音でコラボ、いやいや、なかなかコラボなんていうのは、もう私は、習っていた時も、その最初の先生と、コードプロと、並行し習っていた時でも、トリオ発表会では、もうガチガチで、最初の頃は、もうずれないよう、ずれないようってことばかり必死で、、、

まあ何回かやってるうちに、相手の音は聞けるようになったものの、それこそ、もうその時の相手の音楽に答えて、あわせたりなんてのは、できたら素晴らしいのだろうなあと、いまだに憧れです。

最近は、もうこの先生のレッスンも、行けなくなってしまいましたが、結局このジャズオルガニストの先生には、通算コードプロ基礎2年、あと応用で、3年通いました。

区民コンサートからはじまった、我々の舞台

その応用時代頃からだったと思いますが、”みんなの舞台” と称する、我々講師仲間の集まりの、クラッシック(ポピュラーもあり)のコンサートがはじまり、現在に至っております。

この会のもとはといえば、もうかれこれ14年前頃、私は区民コンサートに、ピアノソロで、出演しました。その頃親子共々、親子劇場という団体に、はいってました。ここでは、毎年そこから紹介される子供年齢にあった劇などの公演を観に行ったり、いろんなお楽しみ会、夏だったらキャンプなどの企画に自由に参加して楽しめるというものでした。

子供だけでなく、親にもいろんな企画が紹介され、その一つに、ドラマワークという、お母さんのための、お芝居事、他何というかいろんな感覚、感情磨きというか、そんな活動の場がありました。私は、お芝居(舞台事)というのにも、とても興味があったので、結局そこへ顔出し気に入り、何年か通いました。そこへは毎回劇団の役者さん、劇団の講師の方々が指導にみえました。

ある時そこで、夏目漱石の『夢十夜』の中の自分の気に入ったお話しを、朗読する、しかし、ただ朗読だけでなく、それに合う音楽を選んで、バックに流しながら読もう…という宿題が出ました。

私は第3夜がとても気に入りましたが、その話に合う音楽が、これぞ!というものが、ちっともみつかりませんでした。そうだ!みつからなかったら、自分で作ればいいんだ、と、さっそくつくりはじめました。

お話のイメージに合う音を組み合わせていくのは、とても楽しい作業でした。ワークのみんなの前で、その自分の曲を、録って(当時は、カセットテープ)朗読とともに、発表いたしました。みんなびっくりしました。でも、イメージにあっていて、いいと称賛受けました。実際あのお話に合う既成の曲をみつけるほうが、私にとっては、大変でした。

いい気になった私はこの曲と、もうひとつ第1夜の曲も作り、ドラマワークのメンバーの協力のもとに、ある音楽事務所のオーディション受け通り、披露しました。

考えてみるに、イメージより、音を作り出す創作、まさにリトミック即興で学んだやり方でした。
それこそ、区民コンサートに、2年間、最初はピアノソロ、2回目はフルートの方とのデュオ、そして、この朗読こそ、みんなも楽しめる、まさに区民コンサートに、いいのでは?と、その音楽事務所の会の後、意気込んで、申し込んだものでした。

しかし、運営の方からの答えはNOでした。1人あたりの時間範囲におさまらない、あと、このスタイルは、コンサートといえるか?とかなんとか、色々いわれ、結局却下されました。

その時たまたま同じ会場が、一週間後の予定が空いており「だったら自分でやればいいじゃん!」となり、さすがに予算的には、ちょっとこの朗読だけでは、成り立たず、ピアノの人、歌の人と声かけし、何とかやることができました。

もっとも、その時は、これからも、やり続けようとまでは、思ってもいませんでした。ところが、周りから、またやるよねえ….という感じで、、、

その後、私は一旦楽器店の講師は、子育て時代、いったんやめましたが、また復活したのも、この頃で、そこで宣伝したら、以外と集まり、結局今現在、一年に2回という流れになってしまいました。嬉しいような、しかし私は本音いえば、大変。でも、出来る限り、仲間がいる限り、やれていることは、ありがたいと思ってます。

一度こんな我々のコンサート、よかったらお出かけください。