4月に小学校6年生になったK ちゃん、ピアノの教本が、ツェルニー40番にはいりました。実は本当のことをいうと、もうその前段階の教本(30番)は すでに昨年の暮れまでにはおわっており、すぐ新年からやってもよかったのですが、3月の発表会の曲がコンクールの曲でもあり、メンデルスゾーンの無言歌集の中でもかなり技巧を必要とする曲だったため、もういっそ発表会が終わってからはじめましょう!ということに、なりました。。

 

 

最初の頃はツェルニー30番同様、いわゆる黒い鍵盤満載の調は出てこない。20番過ぎた頃より、調号としてシャープ、およびフラットが、チラホラお目見えするが、調としては、もともと黒鍵のつくのは 少ない調が多い。

1番などまさに、右手がハ長調の音階、そして、左手は、ハ長調の1度、5度の和音、そして減7の和音より1度の展開形、そして5度より基本で、カデンツでしめくくるという…これは、まさに、黒鍵が少なく、弾きやすいとはいえ、やはり、しっかり締めくくりの和音がついた音階を勉強し、指もある程度動く子しか、やってはいけないだろうと思う。

 

その点、うちでは、もう大体ツェルニー30番に到達する子は、最低でも24調あるうちの、半分はこなしている。Kちゃんはいうまでもなく、もう24調4オクターブスケールカデンツ付きを、ひととおりは、暗譜していたから、何の問題もない。

 

 

さらに5番くらいからは、部分的ではあるが、転調(途中で調がかわる)している。つねに左手か右手が細かく動いてる中、改めて私は、何と美しいメロディなんだろうと、今回Kちゃんが、7番を弾いてきた時に、感じました。

ただ、本当に左手がずーっと細かくしかも、臨時記号(曲のなかで、暗い鍵盤を、部分的につける)だらけ。小指を残しつつ弾く、また、音域も、かなり広範囲、確かにもう弾きこなすだけで、精一杯。

弾き終わったあとに、私が「ねえ、いちど、右手のメロディだけ、綺麗にゆっくりでいいからひいてみない?」といったら、Kちゃんが、「最初、右手だけさらったとき、綺麗だなあとおもった、けど、左手をさらって、さらに両手やりだしたら、必死で、それどころでなくなってしまった」と。

 

いやー、その気持ち、すごくよくわかります。私自身練習のとき、最初だれもがそうだけと、やはり、美しいメロディにひかれ、曲を選択し、美しく自分も弾きたいとはじめるけど、数多い音符軍団の練習におわれ、そして、それはなかなかスッとは弾けない、いつかしら、メロディを綺麗に歌うなんて気持ち、吹っ飛んでしまう。

 

ましてや、Kちゃんのやってる、練習曲は、あんまり、CD聞いて美しいとおもって、はじめるタイプの類でなく、他のさらうものも多い中で、あっ!これ宿題、やらなきゃ!とやるタイプのもの。

 

でも、そんな忙しい練習の中でも、ほんのわずかのじかんでも、このメロディが美しいと感じたということ、そして、あらためて、2人でレッスンで、ゆっくりメロディ弾きつつ、「今ここって、何調だっけ?」とか、「また元の調にもどったときに、ここ!と言ってみて」とか・・・・右手がもうメロディだけでなく、充分和音つきで、弾く時の、上のメロディーの弾き方、指の持っていきかたとか、….おもったより、時間はとられたが、それはレッスンの中でもより音楽的な、いい時間にまちがいない。

 

一曲一曲をはやくたくさんこなしてゆくのは、それなりに力をつけていくのには、必要だけど、もう40番くらいまできたら、どうしたら、美しく弾けるかということに、時間をかけ、そのために進む速度が落ちてもいいのではないかと、思いました。

 

そしてやはりそのためには、あーこのメロディきれい、素敵と感じた気持ちを大事に育ててゆく、そういう気持ちをより多く味わい、どうしたら、どうやったら、よりきれいに近づけるかと、考え練習しだしたら、それは素晴らしい曲を仕上げるまでの道のりです。

 

でもこの道のりは、私自身も、常にそうありたいと思いつつ、弾く事自体に追われていることが、何と多いことか・・・・・😓Kちゃん教えつつ、改めて自分も、反省させられる。🎶